Association of Japanese Residents in Lao P.D.R.



2009年11月号目次

・LJセンター所長

・チャリティバザー
・盆踊り

遺跡の町 ビエンチャン
僕のラグビー人生
ラオスの素材を使ったレシピ
ミタパープ会
日本人会ゴルフ愛好会

コ  ラ  ム

遺跡の町 ビエンチャン


 ビエンチャンは遺跡の上に乗っている町である、というと意外に思われる方が多いだろう。しかしビエンチャンは実はランサーン王国ビエンチャン王朝の都だった町で、日本で言えば奈良や京都のようなものであり、史跡に匹敵する地域である。現在のクンブローム通りからクービエン通りに沿って堀と壁が廻らされており、その中は王宮や王の命で建てられた寺院などが建ち並ぶ都の中心部であった(図1)。そのため、今でもこの範囲の中はほとんどどこを掘っても、地表下1メートルぐらいのところからランサーン期の遺構、遺物が出て来る。堀の一部は今でも残っており、クービエン通りのタラート・クワディンからソッパルアンの方に向かって進み湿地を越えたあたりから数百メートルにわたって見ることができる。

図2 寺院の壁
図3 井戸
図4 建物の基礎
 ランサーン王国は、1353年にルアンパバンを都としてファーグム王によって建国された。その後16世紀にビルマがタイに侵攻しランサーン王国にも迫ってきたため、当時の王、セッターティラート(在位1548〜1572年)は1560年に都をルアンパバンからビエンチャンに遷した。現在の大統領官邸(ホワイトハウス)はランサーン王国の王宮跡の上に建てられている。王宮の隣にはホーパッケオが建立された。ビエンチャンはスリニャウォンサ王(在位1638〜1695年)の頃を中心に繁栄するが、同王の死後、王位継承問題が起き、1707年、ランサーン王国はルアンパバン王朝とビエンチャン王朝に分裂する。さらに1713年にはビエンチャン王朝からチャンパサック王朝が分裂して国力が弱まり、18世紀半ばにタイのアユタヤ王国の属国となる。

図5 灰陶 耳付き壷
図6 土器 ケンディ
 1800年代に入るとランサーン王国は再び国力を回復し始め、それを好機と見た当時の王アヌはタイからの独立を図ったが大敗した。その結果、1827年と1828年に首都ビエンチャンはタイ軍の焼き討ちに遭ってほぼ廃墟と化し、多くのラオス人がタイへ連れ去られ奴隷となった。

 その後、1859年にフランスがベトナムを征服しインドシナ半島の植民化が始まる。フランスは1886年にルアンパバンに領事を置き、1893年にはタイから統治権を奪取、ラオスを植民地とした。フランスはいわゆる”benign neglect”政策をとり、道路、病院、学校などのインフラにはほとんど手をつけなかった。しかしビエンチャン市内には道路をつくり、その際にタイ軍に破壊された寺院などの一部を削ってほぼまっすぐな道を通し、それが現在のセッターティラート、サムセンタイ通りなどとなっている。
図8 伊万里焼茶碗 口径約10cm
図7 灰陶 スモーキングパイプ

 1975年に成立した共和国政府は首都の大規模な都市改造をしなかったため町の概要(主要道路の配置など)はランサーン期から大きくは変わっていないが、近代化が進むにつれてコロニアル風の建造物は急速に姿を消していっている。けれども今なお町の下にはタイに破壊された都の跡が残っている。植民時代初期のフランス人が残した記録によると、先に述べた王宮や寺院のほかに、ワット・オントゥ、ワット・インペン、ワット・シームアンなども現在とほぼ同じ位置に建てらていれたが、現在よりも多少北東(メコン川と反対側)に広がっていた。また城壁内には現在よりも多くの寺院があったようで、たとえばナンプー広場にはワット・パカオが、ラオプラザにはワット・シスモンがあった。少し南に下ると、ホーパッケオとワット・シームアンの中間点あたりにワット・カオニョットがあった。

 現在、ラオス政府は外国から資金援助を受けてインフラ整備を行っているが、その一環として、雨季に水はけが悪く問題になっていた1号線道路(ビエンチャン市内ではセッターティラート、サムセンタイ通り)に排水管を敷設する工事がJICAの無償援助によって2004年から2007年まで実施された。この二本の通りは旧都の中心を通っていることがわかっていたため、工事に伴って事前調査が行われ、2004〜2005年に試掘が、2006〜2007年に本発掘が行われた。二本の道路に沿って計約10キロメートルにわたり、おおむね幅2メートル、深さ1メートル強の溝が掘られた。結果として、遺構85、遺物14万点以上が出土し、遺物は国立博物館に収蔵されて、現在この調査の最終報告書の作成が進められている。

図9 ヤマストーン(幅約15cm)
ラオス古代文字、解読され暦である
ことがわかった。
 発掘した溝が幅2メートルとかなり狭かったため遺構の全容はわかりにくいが、多くが建物の基礎、壁、井戸で、その他に柱の基礎、門の基礎部分、セマストーン(寺院の縄張りのマークとなる石)を集めて埋め隠した遺跡、先史時代の埋葬などが出土している(図2〜4)。遺物は、硬質の灰陶が最も多く、次いで低い温度で焼かれた土器、またタイ、中国、ベトナム、日本などの外国からもたらされた交易陶磁類、やはり灰陶であるが型入れによって作られたスモーキングパイプ、およびガラス製品や金属製品などがある(図5~10)。さらに、遺物の中には焼きものではあるが容器や道具ではないものがかなりあり、漠然と建築装飾と考えられていたが、ルアンパバンの世界遺産指定地域内の建造物を注意深く観察すると、これらと同種のものが寺院の屋根飾りや窓の格子に使われており、かつ寺院にしか使われていないことがわかる。したがって、この種の遺物が出土した周辺には寺院があったことが明らかになる。

 また、住居の屋根飾りというものもあったようで、寺院に用いられるものとは異なるので、このタイプが出土した周辺には寺院ではなく住居があったといえる。実際、出土遺物の中には寺院の屋根飾りが含まれており、そのいくつかは上に述べた今や地表には見られない寺院の位置と合致しており、寺院の存在の証拠となる。このようにして寺院や住居の分布が明らかになると、ランサーン王国時代のビエンチャンの町並みが復元できる。そして、各々の寺院や住居があったところから出土した陶磁器や道具類などを詳細に調べることによって、各寺院や住居でどのようなものが使われていたかがわかり、当時の人々の生活がよりよく理解できるようになる。

図10 銀製の碗
中にさらに様々な銀製品が納められて
いた。
 ラオスは現在、国の発展と文化財保護のあいだで厳しい対応に迫られている。政府としては国の発展を重要視し、SEAゲームやASEANなどの国際的な行事に力を入れている。特に12月に開催されるSEAゲームに向けて、ビエンチャン市内ではゲストハウスや新店舗などの建設ラッシュが進行中で、町中あちこち掘り返され古い建物が姿を消していっている。ラオスにも文化財保護法があり、指定された範疇の建物や建物跡は文化財となり撹乱(掘ったり動かしたりすること)や売買はできない。しかし、法律はあっても専門知識・経験をもった人材や必要な資機材がないためその法律を施行することができず、結果としてランサーン王国時代やフランス植民地時代の建物(跡)は破壊・消滅の一途をたどっている。

 文化財というものは今現在の人々のためだけにあるのではない。国の歴史、文化、伝統を子々孫々伝えていく手だてであり、またそれらの証拠でもある。ラオス国民やラオス在住の外国人がラオスの歴史文化に正しい興味・関心を持つと同時に、ラオス政府が文化財保護の重要性を認識しそれに見合った施設やシステムを早急に整備していくことを望む次第である。

JICA シニアボランティア
歳  原