Association of Japanese Residents in Lao P.D.R.



2011年3月号目次

・JICA事務所長

・1年を振り返って

・デング熱に注意してください

・ラオス雑感

・街づくり
・武道センター運営を通じて武道の振興を支援
・日本とラオスの学生の違い
・ラオス電力公社にて


コ  ラ  ム
 会員からの投稿コーナーです。
 みんなに聞かせたい、聞いて欲しい話など、どんなネタでも結構です。 会員だけでなく、非会員、ラオス人などからの投稿も大歓迎です。

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<ラオス雑感>


*人と国をさす言葉に頬笑の人の国、謙譲の人の国、激情の人の国といろいろあるがラオスは慈の人の国だそうだ。ラオ民族は争いを好まず謙虚であるとも言われる。本当だろうか。これを裏面から見て個人的関係で職場でさまざまな論のあるのを承知しているがここではいちいち述べない。私の日々接しているのは低地ラオの人で中高地ラオの人とはほとんど交流がない。少数民族の人とは没交渉である。私の多少でも知っている低地ラオの人においてもよく分らない。ラオスの他の人については何も知らないし分らない。分っているという人もいるが内容が借物でつまらない。ヴィエンチャンの低地ラオの人と利害関係を持って生活していると私は折々リアクションのない彼等に鬱屈する。進取の気象という言葉をラオス語辞典から探してみたい。

*ラオスを中国漢字は老撾と当てる。現行は簡体の老挝である。漢字の出現は前12世紀殷朝以後で権力者為政者の戦略に源を置く。漢民族は他民族の多くに犭豸虫の字を与えた。「狄」、「獞」、「獠」、「猓」、「貊」、「蠻」、「蛋」、「蜑」、「蠕」などみなそうで中華の外の卑倭なものとした。根底に蔑を感じる。中国のこの思想は古来から一貫して今もその影が隠顕し焦臭い。老は髪の長い背の曲った老人で撾は打つ叩く擲るの意である。地名人名外来語等に漢字を当てる時、これを音写して義を附すことも多い。これから推すに老撾は決して快い語ではない。ラオスの人はどう思っているのだろうか。タイ系諸族ラオ族の雲南からのインドシナ半島南下は12世紀以降とされ、中国正史にその記述があるのだろうが、いつの時代から老撾の漢字が当てられたのか今の私には調がついていない。
*1971年この方随分といろいろな地を巡り生活してきた。今では治安上行けない地がいくつかある。  ここ15年程は主に東南アジアで、行きたいと思った地はほとんど陸行水行で巡った。地理的移動征服が次の地に向かわせる。40年は短かくない年月である。時代は確実に変ってきた。最近特に気附いたことが二つある。その一つ。タイ・ヴェトナム・ラオス・カンボジアを歩いていると、65才前後のアメリカ人男性を折々見掛ける。彼等はみな独りで連れはない。カフェの店先や樹の下や河縁や駅頭でじっと一方に目を向けて黙念としている。何かをしっかりと見ているのかそうではないのか分らない。veteranという英語がある。日本語ではexpertに転意されているが、本義は年を取ったの意からきた老兵・退役軍人の意である。

 彼等アメリカ人はveteranベトナム帰還兵の今日の姿である。1975年のインドシナ戦争終結後35年経て彼等はveteranとして今インドシナの地を巡っている。帰還後の一市民としての彼等の人生は理不尽なものであったと記録・小説・映画などで知ることができる。彼等も長い戦後を持っている。私と同世代である。軍務が終わり独りになる。徒党を組まず群れをなさず35年以前と35年間を独り黙念としている。私にはその思いは深すぎて近寄ることができない。泥沼であった戦争を経て生還した彼らの胸の中には何があり眼の先には何が見えるのか。

 もう一つ。私はほとんど毎日昼食前にどこかの店先でビイルを飲みながら一服する。そこで折りに中古老の男と出合って談ずることがある。スコットランドの人、北ドイツの人、アムステルダムの人、トスカーナの人、レバノンの人といろいろである。話の内容で共通しているのは自分の給付年金では自国で生活出来ないということである。ラオスにいる理由もだいたい共通しているが慈と謙虚は誰も挙げていない。私はノンカイとウドンタニに折々行くがこの街にも中古老が多い。総じて彼等は明るく開放的だ。群れもするし一人遊びもできるのは彼等欧米人のライフスタイルからきた特性かもしれない。自分の時間の使い方をよく心得ている。

 一方日本人は・・・・・。よそう。レバノンの男は年金問題ではなく、タイの女と十数年間一緒にいたが最近別れたという。金も物も何も女には遣らなかった。愚鈍で慾集りになったからだ。結婚は一生の不覚だった。今は気持ちを整理するためにこの街にいる。レバノンの男はタバコを揉み消して苦く真剣に言った。

*私は2009年10月日本のすまいを畳み私物一切を払い少量の書籍を持って非望のボストンバッグ一つの身で日本を去った。ラオスは1999年、2007年、2009年4月以来である。この地は不思議な国であったが今は凡々と変哲もない。もののないのは素敵だ。先年8月已むを得ぬことで帰国した時私はホウムレスであった。

 home-lessは自称か他称か自他蔑称か私は警察官の不審訊問に遭って考えた。警察官は私を理解できなかった。その時も人は必ずどこかで独りで死ぬと思った。夢も死も誰とも共有できない。そして今命乞食が多すぎる。孤独死を負とのみ捉えるのは底の浅いペシミストだ。貶めてはならない。私は40年間国語日本語教育の世界で存分に仕事をして存分に生きてきた。戦争・動乱・内乱・戒厳令・外出禁止令・宗教抗争・テロリスト検問・爆弾騒ぎ・暗殺沙汰・私殺と陰暗の場も潜ってきた。そして今はヴィエンチャンにいる。一所不住を旨とする私はこの先西漸するであろう。

賈島ハ死シテ病驢一頭ト破琴一張ヲ遺ス
Villa Lao アドバイザー 長 谷 部
元 JICA・SV 日本語教育
(マレイシア~ラオス~インドネシア~マレイシア)